ルーンクエスト情報局

新ルーンクエストの情報です。

ヤクザとサガと世間様

なんだかよく分からないタイトルですが(笑)。

出会うと仁義切って、縄張(シマ)の取り合いやって、手打ちして、抑えきれずに命(タマ)取りに行って、それに意趣返しして……ケンカとメンツと人情で人間模様が展開する。


ということで、俺の中ではオーランス社会は立原あゆみ絵となって再生されたのです。


JINGI/仁義 1 (ヤングチャンピオンコミックス)


あああ、ヴァンパイア:ザ・マスカレードにつづいてグローランサでもこんなことが(笑)。




しかし、まあそれはそれでだいたい合っているような気もする。




「教養」とは何か (講談社現代新書)

「教養」とは何か (講談社現代新書)

いうまでもなく、サガは西欧に個人が生まれれる以前の社会を描いたものである。個人が生まれていないということは個々の人間の個体がないということではない。アイスランド社会の中で一人一人の人間は自己と血縁者を同一視していたのである。いわば仲間は自己そのものだったのである。

(同書、p.126)

サガはすでに述べたように国家が形成される以前の社会の出来事を描いている。自力救済は国家がない社会における秩序の基本となっていた。したがって自力救済の義務は当然復讐の義務となり、それはきわめて冷静に遂行されなければならなかったのである。愛憎や侮辱されたという意識、正義の感情とさえ無関係に実行されねばならない義務だったのである。「この理由から、復讐の義務のための殺人は、近代的な意味での復讐とはまったく別物であった」。

(同書、p.129、強調まりおん)

棒打たれのソルステインのサガ

 ビャルニはソルステインという男の人物をよく知っていたと思われる。しかしビャルニは一人ではなく、仲間や郎党を抱えている身である。そのような地位にいる人間としてビャルニは自分一人の信念だけで生きていくことはできない。つまり仲間のものが噂話の中でビャルニを頼りにできないと話していると、それはビャルニにとっては決定的なこととなる。サガの世界では仲間や郎党はビャルニ自身でもあったからである。ビャルニが一人ではないというのはそのような意味である。


 ソルステインの場合も同様である。彼はソールズに受けた傷をそのまま見過ごそうとしていた。そのために棒打たれという渾名をもらいながらも我慢していたのである。彼は温厚な人物で、自分一人が我慢すればすむことについては我慢してすまそうとしていたのである。しかし父親の知るところとなり、父親から臆病者と言われかねなくなるとそれは彼自身の問題となるのである。サガの世界においてはすべての人物はそのような仲間意識の中で生きていた。それは一種の「世間」であった。

(同書、p.155,強調まりおん)



たぶん平安とか鎌倉武士、室町時代とかも同じだと思うんだけど、「世間様から悪く言われることは耐えられない」んですね。まあそれは現在でも基本的にはおんなじで、法の裁きよりも世間の評判が優先されたりする。なんか世間に迷惑をかけることをすると「自己責任論」になってしまったり(笑)。


そういった「世間」が優先される社会――実は近代的な意味の「国家」が発生する以前のほとんどの社会ではそうだったんではないかと思うのですが――の縮図として、任侠ものってのはとても分かりやすいんではないかあと思った。(国家権力に復讐の機会を譲り渡していない、組=共同体のメンツが個人のメンツ、とか)


で、ヒーローウォーズ/HeroQuest/RuneWars 的には、「縁故」ルールを使うとよいのかな。


いろいろ小難しいこと述べて結論がそれだけかよ!みたいな感じですいません(笑)。


んで、この本の一部は(前にもふれたことがあったような気がするけど)「アイスランドサガ」のヴァイキング社会について、贈り物とか復讐の私闘とかの風俗を細かく述べていてオーランス人理解のためにお勧めです。


なんで「教養」を主題としたこの本でそんな話がでてくるのか、というのはまあ読んでみてください。集団=世間と「教養」「教養人」の再生のお話です。

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